いつも苛苛している

何故苛苛しているのかの説明

管理者の言い分

 まだいじめで子供が命を絶った。残された親、学校、地域、マスコミ。全てが終わった後で騒ぎ始め、どうにもならない事ばかり言い合っているので、見ていてとても苛苛している。

 

 あるエッセイスト?だかがこう言ったそうだ。

 

 「死ぬくらいなら逃げて。学校なんて休めばいい」

 

 なんてバカなんだろうと思った。バカは言いすぎだとしても、なんて大人本意で、子供を蔑ろにした理論なんだろうと。

 

 こういう輩は、自殺者として子供の命がカウントさえされなければいいと思っている表面的な偽善者。数字に出ないだけでいじめを耐え抜いている子供の存在を知らないのだろう。

 

 僕は昔、いじめを受けていた。

 

 それが多少なりとも捻くれた人格形成に影響を与えたかもしれないし、人間不信を助長した面もある。自殺をしようとした事もある。当時の体重がカーテンレールによって支えられる程度だったら死んでいた。しかし、僕は今も生きている。

 

 だからこそ思う。表面的にいじめをなくしたい大人の身勝手さにはらわたが煮えくり返る思いなのだ。僕自身が大人になった今もそれだけは変わらない。社会や大人への不信感は確実にいじめによって植えつけられた。加害者の事など今はどうでもいいと思えるほどに。

 

 学校から逃げる話に戻る。この理論がいかにナンセンスかは、多くを語る必要もない。結論はこうだ。「そんな選択を容易に出来る奴は死なないし、そもそもいじめられない」

 

 納得できない輩のために敢えて多くを語るとするならば。

 

 まず、子供達にとって社会・世界とは学校だ。塾やネットで昔より多少広がったとはいえ、主体はやはり学校だ。そこから逃げる事は現実の放棄だ。それを安易に選択できる、選択した後も後腐れなく生きていける土壌が果たしてあるのか?

 

 一度休んだ程度でいじめが収まるはずがない。一度休めば、次の日も休む。やがて不登校に陥るだろう。いじめからは逃れた。自殺からも。しかし、じゃあその先どうやって生きていく?一旦ドロップアウトしたら容易に戻れないこの社会で、それを子供が選択するだろうという想像が、既に子供を見下しているんだよ。勿論華々しく戻れる人もいる。努力して戻れる人もいる。けど全てじゃない。学校から、いじめから逃げたことで社会に戻れなかった子供達は、見捨てるのか?自分は安全圏から「ニゲロ」とか言って?そんなの無責任じゃないか。

 

 だから、言うならこうだ。「いじめらているのなら学校なんて行かなければいい。そして私の家に来なさい。大人になる日まで面倒を見てあげる」

 

 もうひとつ。逃げるという事は長期的ないじめとの戦いにおいて有効ではない。小学校でいじめられた人間は、その先、中学、高校、職場、どこまででもターゲットになりうる。小学校は逃げて、それで次はどうする?周りのモンスターのレベルは上がっていき、逃げることすら難しくなっていく中で、ストーリーを進める為にレベルも上げず逃げてばかりいても、いつかどこかで殺される。少なくともボスからは逃げられないし、倒せない。大人になって思うのは、人生には、そんな局面が何度でもある。その場しのぎで得をするのは誰か?紙面で自殺者の数が減ったのを見て喜ぶ無関係な偽善者だけである。

 

 そして。これが一番大きな理由。 経験から言って、いじめられている側は、自分が非日常に陥った事を周りに悟られたくないのだ。

 

 学校を休む。加害者は喜ぶだろう、攻撃は効いている、と。次に出てきたらもっと酷い事をしてやろうと思うだろう。加害者ではない傍観者達にも、自分が被害者である事を公然と知らしめる事になる。そうなれば、傍観者の中から加害者に加わる者も出てくるだろう。現場の事態は悪化する。

 

 学校を休む。当然、親は心配するだろう。親に知れれば学校に、そして教員の介入が始まる。だけど、それは信用できない大人の仲裁。子供同士の争いが、学校と保護者との問題に成り変り、表面上解決したように見せて大人同士が安心する為の儀式でしかない。そんな儀式を行ったところで、水面下でいつまでも戦いは続く。むしろ、大人を味方につけていまうと、たいていの場合は事態は悪化する。子供同士、当事者同士で解決すべき事案(互いに非がある)場合は、特にそうだ。親同士のいざこざを持ち込む代理戦争だってある。

 

 いずれにしても、自分が「普通でない」状態だと周りに知られたくない。「自分はいじめられている」という現実を公にしたくない。当時の僕はそう思った。そうではない、積極的にSOSを出そうとする子もいるだろう。けど往々にしてそれらは当事者意識の無い者達には伝わらないから救えない。少なくとも、「無視される事はよくある事。気の合わない奴とは距離を置け」という社会人の常識が備わった頭の堅い連中に、「無視」がいじめに当たると理解させるのは難しい。

 

 結果的に「普通じゃない自分」との後腐れない合理的退避として「自殺」が選ばれているに過ぎない。「自殺」は結果じゃなく、本人からすれば「過程」なのだ。その選択で、一切の面倒事から解放される。そこが大人には理解できない。死んだら生き返らないと知ってしまったために。大人がしようとする自殺との剥離が、大人の無理解に繋がっている。本人から見て逃避として成り立ったからこそ、「突然自殺した」ように見えるだけ。絶対に兆候はあるはずなのだ。その兆候を誰が見つけるべきで誰が止めるべきなんて話でもない。究極的には誰であろうと死んだ本人しかその本意は分からないが、マスコミはそのセンセーショナルな結果に対して無駄に想像力を働かせ、演出する。

 

 いじめ(もっと言えば現実全般)からの逃避として自殺は極めて合理的だ。しかし、それが永遠の逃避である事を自分は望まないと分かってしまえば、やはり「耐える」しかなくなるのだ。根比べ。僕はそれでいじめを克服した。加害者が僕への興味を失う(不本意であるが自分以外の別のターゲットに攻撃対象が移るのを待つケースもあった)事で、僕はいじめから解放された。つまり、いじめには「立ち向かう」しかないのだ。「逃げる」のはその場しのぎにすらならない。僕のようにただ黙って耐え忍ぶ、或いは被害者同士で結束して立ち向かう、「嫌だ」と加害者に対しはっきり意思表明する。 極論だが、加害者を武力で排除してしまう事もやぶさかではないと個人的には思う。それをすると全く別の問題に発展してしまうが、自分は耐え忍びつつ「隙あらば首を掻き切ってやりたい」と思っていた。

 

 理想を言えば、傍観者が加害者を諌める事が出来れば一番いい。大人の介入なくして子供達だけで克服する。自分は元被害者でありながらそんな勇気の無い傍観者でもあったが・・・。

 

 いずれにせよ、加害者に対し「自分はいじめに屈しない」と思い知らさなければ終わらない。それは生きる為の知恵であり、集団生活での自己防衛手段。言い方は悪いけど、いじめごときで死ぬような人間は社会に出たら遅かれ早かれ死ぬぞ。子供の頃は学校が社会だったので、そこで起きた事が全てなのは分かる。でも社会に出ればもっとひどい。ブラック企業の問題だって、資本が人間をいじめているに等しい。実際それで死んでいる問題もあるが根源は同じだと思う。

 

 いじめられる側にも非がある、とまでは言わないけれど、いじめられる本人に原因がある事もある。例えば身体的特徴をからかわれたなら、それは持って生まれたもので、本人に責任は無いし、それが分かっている人間はからかったりしないが、それが分からないバカとは必然的に遭遇するはめになる。その時そういうバカを避ける、あしらう術は生きるために本人が身につけるべきスキルであり、それは必ずしも学校が教えるものではない。最近のマスコミの論調への違和感はそれだ。

 

 少なくとも、僕自身は過去に自分がいじめられるべき存在だったと今でも思っている。それが自然体で、無味無臭の現実だと受け入れられたから今僕はいじめを「感知していない」というだけで、無理解な人間が傍から見たら、大人になった僕は今でもいじめられているように見えるかもしれない。もはやそれがどうでもいいと思えるようになった、鈍感は即ち強さでもある。ありがちな言葉だが「強い者は生き、弱い者は死ぬ」というのはあながち嘘でもない。

 

 では、何故いじめられる側に強くなる努力を強いるのか?不公平だ!と言われれば、確かに理不尽ではあるが、そうするしかないとしか言えない。だって、もし熊が襲ってきたら、熊に「弱い人間を襲ってはダメ」とその場でいくら教えても意味が無い。自分が逃げるか、身を守る。自然に対して人間が行えるのはそこまで。バカに言葉は通じない以上、バカに道を譲るのが嫌なら、撃ち殺すしかない。熊は撃ち殺してもいいのに、バカは撃ち殺せないのが人間の社会の欠陥だ。従って、排除できない以上は自分から身を引くしかない。それは感情論ではなく無味無臭な処世術。公平だの不公平だの損得の話をしてゴネても仕方ないのだ。

 

 で、「いじめをなくそう」と大人たちは言うけれど、じゃあアンタたちの世界にはいじめはないのかい?人種差別は?民族紛争は?形を変えた「弱い者」いじめだろう?もっと言えば職場にだってある。弱いものを攻撃するのは生物に組み込まれたプログラムであり、抗えない。

 

 それも解決できないくせに、子供達の世界だけから、もっと言えば教育現場だけからいじめをなくすなんて出来るはずないし、それは臭いものに蓋をしているに過ぎない。何より自分達に出来ない事を子供にやらせようとするな。

 

 ・・・ああ、確かに子供が自殺するのは問題だ。じゃあ大人はいじめられて死んでもいいのか?子供は社会が守るものだから?じゃあその最も近しい保護者は何をしていたのか?ただ我が子を突然失ったやり場の無い悲しみを行政にぶつけたいだけじゃないのか?マスコミはそれを助長する、その方が同情論が集まって売れるし、公僕はいつだってサンドバックだ。だがそんな子供不在の利害関係などどうだっていいんだよ。「子供が子供に殺された」という事実をストレートに受け止められていないだけで、死に理由を求めるのは生者の傲慢だ。

 

 こういう事を言うと、必ず「いじめを肯定するのか」と横槍が入る。「いじめた側の身勝手な理論」とまで言われる。いじめられた過去を持つ人間が、いじめを肯定していると本気で思うなら想像力がなさ過ぎる。だから非建設的で無粋な横槍は無視する。肯定するか否定するか、科学理論の提唱でもしているのか?現実にあるから受け入れるしかないだろ。

 

 いじめをなくそうだなんて高尚なセリフが言えるのは、自らを子供世界の管理者として上位世界に君臨している大人様だと奢り高ぶっているただのバカである。子供は守るべき対象ではあるが、大人が管理すべき対象ではない。もしそうだと言うならば、今すぐ子供のネット閲覧は全て検閲し、子供の体にGPSを埋め込むしかない。でも、そんな子供もいつかは大人になる。途中まで温室管理して、大人になったらハイサヨウナラ?その後に生きられないのは自己責任?パンも与えられずに道端に放り出されるのか?この国の教育はいつだってそうだ。

 

 我々に出来るのは、子供に生きる、生き残る術を教える事。生き抜く知恵を与えることではないのか?弱いから仕方ない、ではなく、「強く」する。そして、それが出来るのは最も子供の身近にいるべき親だと思う。そして、それをこの国の教育に委ねたいというなら、この国は教育に金をかけなさ過ぎだ。そういう選択をした国民の責任だ。未来を捨て国を存続する今のやり方では、100年先にはこの国はなくなっていると思う。今を生きる大人がそれでいいならそれでいいけど。

 

 そして、繰り返しになるが、いじめを教育現場からなくせばそれでいい奴は本当によく考えて欲しい。世界の縮図だよ。まず大人が手本を見せるべきだ。大人が出来ても無い事を子供に押し付けるのは傲慢だ。大人が出来れば子供もそれを見て真似る、学ぶ。大人は先ず先に答えを見つけるべきだ。教えるべきことを。それは逃避の術じゃない、克服する知恵だ。

 

 ここで今更訂正。「いじめ」ではない。傷害、人格の侮辱、犯罪だ。大人の世界によくあるそれだ。戦争はなくなるか?憎しみは断ち切れるのか?否、人間が感情に支配される限り、なくなりはしない。それは人類の構造的欠陥だからだ。しかし、抗う事は出来る。良くしようと改善は出来る。一度に解決など出来やしない。

 

 誤解なきように、被害者に言いたい。「いじめごときで死ぬべきではない」…結果論で大人になれば大した問題ではないと思える自分も、当事者意識の欠けた大人かもしれない。でも、悟って欲しい。愚かな連中の時間つぶしに付き合う事など無いんだよ。そいつを殺す事でしか脱却できないと本気で思ったら、実行に移したらいい。生き残る為には致し方ない、自分が死ぬよりマシだ。それは生物の摂理。それを可能なら避けたいから大人は焦って目先の事にしか頭が回らないのだ。大人の世界の理なら、「嫌な仕事は辞めて、転職してやり直せ」で済む。何をしても自己責任だ。でも、その選択を安易に出来ないから被害者になってしまうのだ。子供は自由奔放だと言える大人は過去を美化している懐古主義者。親だったり学校だったりが責任を肩代わりするせいで、破天荒な選択は端から潰されている。

 

 だからこそ負けないで欲しい。もっと言えば、いじめに耐える事すら馬鹿馬鹿しいと気付いて欲しい。バカの相手をする必要は無い。自分がバカにならないためにも。そういう輩は徹底的に見下して、軽蔑するんだ。そして、可能なら排除しろ。自らの利益を考えろ。生きる事が至上目的だと本気で思うなら、自分が加害者になったっていいんだ。自分だけが被害者…弱い、価値のない、死ぬべき存在という格付けに甘んじるな。

 

 繰り返しになるけど、僕は、自分がいじめられて然るべき存在だと思っている。誰が悪いかの話をすれば、それはそんな風に生んだ親が悪いという話になるが、その親もそんな子供を生むように生んだ親が悪いという話になるので、結論は「誰が悪いわけでも無い、皆悪い」という性悪説に行き着く。でも、それでも僕は自殺を試みる事はない。「集団の利益のために排除されるべき存在が排除されない」事が、自分を蔑み嘲笑った社会への合法的攻撃だと知っているから。死んだら負けだから。「強い者に攻撃されたら死んで当たり前な弱い者が強い者に攻撃されても死なない」って、それはもう「弱くない」って事。だから999人に「死ね」と言われようと、その999人が死を望む限り生きていくし、あわよくばその999人を殺してでも生き延びる。それが僕の生きる道。共生すべきなんてのは絵空事だ。

 

 自分が死んだほうが世の中のためになるとか、それで全てがうまくいくなんてお人よしはやめよう。死んだところですぐに忘れられる。加害者だって社会復帰する。そいつらが家庭を持ち、のうのうと幸せに生きていくのを許せるか?死ぬことは復讐になり得ない。復讐したいなら尚更生き残るべきだ。のうのうと生きる者が築いたかけがえのない幸福に対する見えない脅威として、抑止力になるべきだ。

 

 最初の話に戻るが、学校から逃げて、社会から逃げて、現実からも逃げる。そしてそれで生きていけない部分は他人が補うのを良しとし、あわよくば奪う。でも、それだって生きる道。是非はあるだろう。しかし、安易に「二ゲロ」と言う大人は信用するな、そういう奴に限っていざ自分が奪われる側になれば「ヤメロ」と、自ら推奨した「生きる道」を否定してくるに決まっているから。安全圏にいるからこそ言える事もある。大人の本音と建前ってそういうもの。

 

 いじめはなくせない。人類の克服すべき問題が、いち子供に解決できる訳が無いし、それは大人がすべきことだから子供がする必要もない。でも、子供でも抗う事は出来る。いや、むしろ、子供であっても抗わなければ、皆平等に殺される。大人と同じように。その術を共有しよう。

 

 争いの無い世界なんてない。悲しいことかもしれないけど、無様でも生き残るしかないんだ。

 

 僕が今日まで生き残った術が、今この瞬間を戦う誰かの役に立つと願って。