いつも苛苛している

何故苛苛しているのかの説明

俯き妖怪共

 僕はスマートフォンという物を持っていない。

 こう書くだけでも僕の素性が知り合いにバレてしまうんじゃないかと怖くなる程度に今となってはマイノリティだという自覚もあるし、世の中に普及している事は認めざるを得ない。

 

 

 何故持たないのか。便利だし、皆持っている物を。

 その理由には物理的、金銭的、或いは目的意識に因る処もあるが、それはさておき。

 簡単に言えば、嫌いなのだ。

 

 

 例えば、そこそこ気の知れた友人と食事に行く。

 最初は話に花も咲く。食事もそこそこ、一服をつく頃になって。

 何故かスマホが現れる。

 いや、下手を打てば最初からまるで食器の一部のように机に置かれていたりもする。

 相対した友人は視線を落とし、スマホに目を向ける。

 それは、客観的に見て僕を相手にしていないのと同義。

 想像してみてほしい。片方は視線を上げ、もう片方は俯いて項垂れている。その光景を良い雰囲気だと思う者はいないと思う。

 主観では?もちろん、「無視されている」と思う他無い。

 誘ったのが当方であれ相手であれ。今まさに自らの時間を二人の時間として提供し、共用しているそのさなかに。

 いとも簡単に。一方的に。それが閉ざされる。

 

 

 はっきり言います。

 不愉快です。

 無礼極まりないよ。狭量だろうが今時当たり前だと言われようが。

 もしこれを読んで思い当たる節がある僕の知り合いがいるなら、大いに反省していただくか、「それでもスマホが見たいんじゃ!」という方は今後の付き合いを検討して欲しいね。

 というか、常識的に考えて相手に失礼だと思わないのかね。そう思えない神経が解せん。

 当然、そこで二人の時間は不意に途切れ、食事はまずくなり、会話はぎこちなくなり、少なくとも僕は割を食う形で店を後にするわけだ。僕がコミュ障である事を鑑みても、あんまりな仕打ちではないか。

 

 じゃあ三人なら?

 もっと不愉快だよコンチクショウ!!

 三人いて、二人がスマホに目を落としている。僕は普通に食事、食べるものが無ければ、水でも飲みながら会話の糸口を探すだろう(既にこの光景だけで薄ら寒い)。

 そして考える。

「ああきっと今この二人は、スマホ越しに俺の悪口を言っている」

 ラインとかグループトークとかよく分からない。ガラケーのメールでも悪口を言い合うだけなら同じ事は出来る。

 問題は、この場にいない者と、それを共有しているのではないかという不快感。スマホでは、それが出来る(と聞いている)。それも、限りなくリアルタイムに、だ。

 もちろん疑心暗鬼にすぎず、各々が独立したプライベートに接続している事だってあるだろう。それが普通だと信じたい。でも人間だ。感情がある。簡単に害される脆さがある。

 まだ、「お前を仲間外れにしているぜ」と分かるように二人でしか通じない話題に興じていてくれた方が、あからさまな分気持ちはいい(それでも遅効性ながらダイレクトに傷付くが)。

 そんな疑惑を生み出す可能性を発生させるという点で、スマホが嫌いなのだ。

 持つのはいい。使うのもいい。金を払っている。好きなだけ使え。

 だが最低限、僕と話している時は我慢してくれ。

 と書くと傲慢に見えるなら、お願いとして、人と会って、話す時は、出来ればやめて欲しい。気にならない人もいるし、恐らくは気にならない人のが多いと思うけど。

 そこまで大事なやりとりがあるなら、素直にそう言ってくれ。訃報でもオークションの監視でもいい。嘘でも理由を述べれば、疑惑は納得に変えられる。少なくともその場では。

 そこまで大事ではないのなら、今この場で相対する僕の価値はその程度だと捕らえさせてもらうし、その程度の付き合い方でいいのだとこちらも自覚してそれ相応の応対をする。もう一度言うが、望むべくは、向こうからその程度の価値しかない人間との付き合いを断ってくれれば、こちらも一手間減るし、良心を余計に傷つけずに済む。ああ、ゲームとかやってるとか言ったら吹っ飛ばすから。

 何が言いたいかというと。

 プライベートな時間を切り売りして設けた場だという自覚をして欲しい。その事に対して、お互いが敬意を払うべきだ。

「今日は来てくれてありがとう」

「こちらこそ、誘ってくれて嬉しかったよ」

 そう自然に言い合えるような場って、そんなに難しい?

 今日一日を無駄に過ごしただなんて、誰だって考えたくないはずだ。スマホをするのが無駄とは言わないが、誰かの時間を無駄にしている事を覚えていて欲しい。

 

 

 でも、そもそもスマホである必然はあるのか?と考える。

 これは僕自身不思議に思うことなんだけど。

 だって、世の中にはもう10年、いや20年前から「ケータイ」が普及して、いつの時代の若者だってそれをコミュニケーションに用いていた。僕自身も例外ではない。

 最近よく言われる「歩きスマホ」って言葉の違和感もそれだ。若者がケータイを見ながら歩いている光景なんて、わざわざ名詞化するほど特殊な事か?「歩きケータイ」「歩き電話」で通じるし、何なら「ながら歩行」のが「ながら運転」と対になって汎用性も高い。これは、マスコミが主視聴者層であるおじさんおばさんに対して若者下げをを行うために「スマホ=若者」という結び付けをして印象操作を行うために作った造語だと思うのだけれど、今はその話は置いておくとして。

 感情を排除して冷静にガジェットとして見れば、ただの板。バッテリーが脆弱なポータブルなパソコン、或いはインターネット端末。それだけ。類似する物なんていくらでもある。

 それでも感情を交えると「スマホ憎し」になる理由は、前述のマスコミ造語と同じなんじゃないか。

 スマホの象徴たる若者。もっと言えば、繋がる相手が存在する「リア充」。いや、今や小学生からおじいさんまで持っている、そういう相対的普遍性。

 僕を迫害してきた「フツーの人間」の最先端の武器。それで本来不可侵な個人の時間を攻撃されるという発想は、単に僕が捻くれた人間であるという事以上の意味を持つような気がする。

 ひと、そのつながり。或いはそれらを構成因子にもつ「時代」。目に見えないけれど確かに存在する、抗えない存在。それが、スマホの出現で可視化されてしまった。

 きっと、僕より長く生きた人の中には、ポケベルやガラケーの出現時に、同じような時代への疎外感を感じた人もいるのではないか。

 

 

 「じゃあ、仲間外れが嫌ならアンタも持てばいいじゃない。それで持っていない相手を迫害する側になればいいじゃない!」もちろんそれはごもっともである。人はマジョリティに属するだけで、社会上は強くなれる。

 でも、じゃあ持てば満たされるのか?空虚な繋がりで、本当に満足できるのか?満足してしまえるのか?そういう怖さがある。

 そう、嫌いを通り越して、怖い。あんな薄っぺらな板切れが、自分を変えてしまうんじゃないかという怖さ。

 ともかく、皆が持っているから当たり前、持っていない奴が悪い、そいつが我慢すればいい。そんな暴力的な民主主義は好きじゃない。持ってて当たり前、という空気が漂っている時点で、この国の多様性は失われた。ついでにガラケーという独自文化も潰された。世界的にも先進的だっただけに残念。

 SNSもそうだが、日本人はもっと外来種のツールと自分達の相性を知るべきだ。何でもかんでも欧米に倣え追い越せは戦前だけで十分だが、いつの時代もそうなる辺りが島国根性たるイナカモノ的国民性なんだろう。単一民族故に排他的で保守的であるかと言うと、すぐに扇動されるあたりはその限りではない。

 発祥の欧米では、もっと人間同士の関係性がドライだと聞く。日本人が真似できるような物じゃないし、真似するべきとも思わない。敗戦で植えつけられた劣等感がそうさせるのか、日本人はアイデンティティを軽視し過ぎた。そんなもんは最初から無かったんじゃないかと思すらえる。けど、結果的にスマホは日本人を変えてしまった。3.11からなる時代のうねりがあったにしても。

 

 個人的な嫌悪から随分と話が飛躍してしまったが、結論として、やっぱりどうにも好きになれない。便利なことも分かっているし、遠くない未来にやがてガラケーは滅びるだろうから、いつかは生きていくためのインフラとして必須になることも分かっている。

 それでも、まるで当たり前のように人の悪意を掌でシェアできる道具に、禍々しい物の怪を重ねてしまう。今、人ならぬ繋がりが僕を取り囲む状況こそが、嫌悪感の正体である。

 面倒臭い人間なんだ。

 

 

 あー、ちなみに。

 「画面を指で撫で回す」という造作が嫌い、という最も主観的で生理的な理由があったわ。実際不衛生らしいし。

 電車乗って皆俯いてナデナデしてる様は本当に気持ち悪いと思います!