いつも苛苛している

何故苛苛しているのかの説明

あ。

 なんでいつもこうなるかな。

 

 気がつくと板挟みの状態になっている。

 ある一つの「組織」の中に二つの派閥があったとして、どちらかに属せばどちらかと敵対するような場合、そもそも誰とも敵対したくないのでどちらにも属さないでいると、いつのまにかそのような状況となる。

 なぜ属そうとしないのか。

 確かに帰属はすなわち安心に繋がるかもしれない。だが、同時に「いつ裏切られるか」という不安も背負い込む事になる。

 最初はただの八方美人だったが、それをやめてもなお帰属を避けるのは、不安を恐れているからだろう。根底にある人間不信がそうさせるのだ。

 もちろん、争いそのものを避けている面もある。それは、誰かに攻撃したり、攻撃されたり、その過程で傷付け、傷をもらう。その一連の感情の動きそのものが、何と言うべきか、面倒臭いのだ。

 そんな、面倒を抱え込んだ上に不安と隣り合わせにある安心を手に入れるくらいなら、最初から孤独でいたほうが、「楽」なのだ。

 

 だが、そう簡単にはいかない。

 「組織」の中での孤独は、やがて疎外感を生み、周囲からの迫害が始まる。そうなれば、状況はさらに面倒な方向へ転がり込んでいく。

 そうなってようやく「組織」を捨てる。抜け出す。忘れる。ゼロに戻す。僕の人生はその繰り返しで、継続的な人間関係など全く築けていない。

 最初から「組織」に属さない生き方を選択できれば、それが僕の人生の突破口になり得るか?安直な考えだと思う。「組織」に属しているからこそしなくて済んでいる事も有るからだ。

 「家庭」「学校」「職場」…。恐ろしいことに最初から所属が義務付けられている「組織」すらあるのだ。

 

 或いは、周囲に疎まれつつもしがみ付き、甘い汁だけ啜るような生き方も狡猾だろう。

 問題なのは、「それでも組織のために尽くしたい」という中途半端な真面目さ。それがある限り、良かれと思ってやった事全てが裏目に出てしまう。それこそ派閥に属すだけで何もしてない者の方が無害であるほどに。集団の福祉を自分なりに考えた末に、自分も含めた周囲全てが迷惑を蒙る。救われない。

 だから、組織を利用して甘い汁だけ啜る、或いは組織に属さず社会的な責任も放棄して出鱈目に生きる、そういう不真面目さが今の僕には必要なのかもしれない。

 しかし、それは自分を曲げることになる。どうせ曲げるのなら、さっさと派閥に属して、無自覚な悪意を無関係な人間にぶつけ続けるのも同じではないか。そんな袋小路。

 

 正しく、自分らしくありたいが為に。それはこの社会で望まざるべき願望なのか?そんなに困難な生き方なのか?排斥されるべき思想なのか?机上の理想論でしかないのか?

 

 

 あとは板挟みに耐えるだけの日々。

 どちらにももたれ掛からないようにバランスを見極めて、全て背負い込んで、すり減らす日々。

 有益か?

 それとも孤独を受け入れる覚悟を決めるのか。それは他者からの一切の援助を放棄する事。それを享受し、甘えて生きてきた僕にそんな生き方が出来るのか。

 じゃあどうしたいのか?

 簡単な話。楽になりたい。

 もっと有益な生き方をしたい。無駄に人生をすり減らす日々に別れを告げたい。つまらないしがらみにも。

 そんな理想と現実の間で右往左往していただけで、こんなにも歳をとるだなんて。

 

 ああ、どうしていつもこうなるのだろう。

 腹立たしい。