いつも苛苛している

何故苛苛しているのかの説明

管理者の言い分

 まだいじめで子供が命を絶った。残された親、学校、地域、マスコミ。全てが終わった後で騒ぎ始め、どうにもならない事ばかり言い合っているので、見ていてとても苛苛している。

 

 あるエッセイスト?だかがこう言ったそうだ。

 

 「死ぬくらいなら逃げて。学校なんて休めばいい」

 

 なんてバカなんだろうと思った。バカは言いすぎだとしても、なんて大人本意で、子供を蔑ろにした理論なんだろうと。

 

 こういう輩は、自殺者として子供の命がカウントさえされなければいいと思っている表面的な偽善者。数字に出ないだけでいじめを耐え抜いている子供の存在を知らないのだろう。

 

 僕は昔、いじめを受けていた。

 

 それが多少なりとも捻くれた人格形成に影響を与えたかもしれないし、人間不信を助長した面もある。自殺をしようとした事もある。当時の体重がカーテンレールによって支えられる程度だったら死んでいた。しかし、僕は今も生きている。

 

 だからこそ思う。表面的にいじめをなくしたい大人の身勝手さにはらわたが煮えくり返る思いなのだ。僕自身が大人になった今もそれだけは変わらない。社会や大人への不信感は確実にいじめによって植えつけられた。加害者の事など今はどうでもいいと思えるほどに。

 

 学校から逃げる話に戻る。この理論がいかにナンセンスかは、多くを語る必要もない。結論はこうだ。「そんな選択を容易に出来る奴は死なないし、そもそもいじめられない」

 

 納得できない輩のために敢えて多くを語るとするならば。

 

 まず、子供達にとって社会・世界とは学校だ。塾やネットで昔より多少広がったとはいえ、主体はやはり学校だ。そこから逃げる事は現実の放棄だ。それを安易に選択できる、選択した後も後腐れなく生きていける土壌が果たしてあるのか?

 

 一度休んだ程度でいじめが収まるはずがない。一度休めば、次の日も休む。やがて不登校に陥るだろう。いじめからは逃れた。自殺からも。しかし、じゃあその先どうやって生きていく?一旦ドロップアウトしたら容易に戻れないこの社会で、それを子供が選択するだろうという想像が、既に子供を見下しているんだよ。勿論華々しく戻れる人もいる。努力して戻れる人もいる。けど全てじゃない。学校から、いじめから逃げたことで社会に戻れなかった子供達は、見捨てるのか?自分は安全圏から「ニゲロ」とか言って?そんなの無責任じゃないか。

 

 だから、言うならこうだ。「いじめらているのなら学校なんて行かなければいい。そして私の家に来なさい。大人になる日まで面倒を見てあげる」

 

 もうひとつ。逃げるという事は長期的ないじめとの戦いにおいて有効ではない。小学校でいじめられた人間は、その先、中学、高校、職場、どこまででもターゲットになりうる。小学校は逃げて、それで次はどうする?周りのモンスターのレベルは上がっていき、逃げることすら難しくなっていく中で、ストーリーを進める為にレベルも上げず逃げてばかりいても、いつかどこかで殺される。少なくともボスからは逃げられないし、倒せない。大人になって思うのは、人生には、そんな局面が何度でもある。その場しのぎで得をするのは誰か?紙面で自殺者の数が減ったのを見て喜ぶ無関係な偽善者だけである。

 

 そして。これが一番大きな理由。 経験から言って、いじめられている側は、自分が非日常に陥った事を周りに悟られたくないのだ。

 

 学校を休む。加害者は喜ぶだろう、攻撃は効いている、と。次に出てきたらもっと酷い事をしてやろうと思うだろう。加害者ではない傍観者達にも、自分が被害者である事を公然と知らしめる事になる。そうなれば、傍観者の中から加害者に加わる者も出てくるだろう。現場の事態は悪化する。

 

 学校を休む。当然、親は心配するだろう。親に知れれば学校に、そして教員の介入が始まる。だけど、それは信用できない大人の仲裁。子供同士の争いが、学校と保護者との問題に成り変り、表面上解決したように見せて大人同士が安心する為の儀式でしかない。そんな儀式を行ったところで、水面下でいつまでも戦いは続く。むしろ、大人を味方につけていまうと、たいていの場合は事態は悪化する。子供同士、当事者同士で解決すべき事案(互いに非がある)場合は、特にそうだ。親同士のいざこざを持ち込む代理戦争だってある。

 

 いずれにしても、自分が「普通でない」状態だと周りに知られたくない。「自分はいじめられている」という現実を公にしたくない。当時の僕はそう思った。そうではない、積極的にSOSを出そうとする子もいるだろう。けど往々にしてそれらは当事者意識の無い者達には伝わらないから救えない。少なくとも、「無視される事はよくある事。気の合わない奴とは距離を置け」という社会人の常識が備わった頭の堅い連中に、「無視」がいじめに当たると理解させるのは難しい。

 

 結果的に「普通じゃない自分」との後腐れない合理的退避として「自殺」が選ばれているに過ぎない。「自殺」は結果じゃなく、本人からすれば「過程」なのだ。その選択で、一切の面倒事から解放される。そこが大人には理解できない。死んだら生き返らないと知ってしまったために。大人がしようとする自殺との剥離が、大人の無理解に繋がっている。本人から見て逃避として成り立ったからこそ、「突然自殺した」ように見えるだけ。絶対に兆候はあるはずなのだ。その兆候を誰が見つけるべきで誰が止めるべきなんて話でもない。究極的には誰であろうと死んだ本人しかその本意は分からないが、マスコミはそのセンセーショナルな結果に対して無駄に想像力を働かせ、演出する。

 

 いじめ(もっと言えば現実全般)からの逃避として自殺は極めて合理的だ。しかし、それが永遠の逃避である事を自分は望まないと分かってしまえば、やはり「耐える」しかなくなるのだ。根比べ。僕はそれでいじめを克服した。加害者が僕への興味を失う(不本意であるが自分以外の別のターゲットに攻撃対象が移るのを待つケースもあった)事で、僕はいじめから解放された。つまり、いじめには「立ち向かう」しかないのだ。「逃げる」のはその場しのぎにすらならない。僕のようにただ黙って耐え忍ぶ、或いは被害者同士で結束して立ち向かう、「嫌だ」と加害者に対しはっきり意思表明する。 極論だが、加害者を武力で排除してしまう事もやぶさかではないと個人的には思う。それをすると全く別の問題に発展してしまうが、自分は耐え忍びつつ「隙あらば首を掻き切ってやりたい」と思っていた。

 

 理想を言えば、傍観者が加害者を諌める事が出来れば一番いい。大人の介入なくして子供達だけで克服する。自分は元被害者でありながらそんな勇気の無い傍観者でもあったが・・・。

 

 いずれにせよ、加害者に対し「自分はいじめに屈しない」と思い知らさなければ終わらない。それは生きる為の知恵であり、集団生活での自己防衛手段。言い方は悪いけど、いじめごときで死ぬような人間は社会に出たら遅かれ早かれ死ぬぞ。子供の頃は学校が社会だったので、そこで起きた事が全てなのは分かる。でも社会に出ればもっとひどい。ブラック企業の問題だって、資本が人間をいじめているに等しい。実際それで死んでいる問題もあるが根源は同じだと思う。

 

 いじめられる側にも非がある、とまでは言わないけれど、いじめられる本人に原因がある事もある。例えば身体的特徴をからかわれたなら、それは持って生まれたもので、本人に責任は無いし、それが分かっている人間はからかったりしないが、それが分からないバカとは必然的に遭遇するはめになる。その時そういうバカを避ける、あしらう術は生きるために本人が身につけるべきスキルであり、それは必ずしも学校が教えるものではない。最近のマスコミの論調への違和感はそれだ。

 

 少なくとも、僕自身は過去に自分がいじめられるべき存在だったと今でも思っている。それが自然体で、無味無臭の現実だと受け入れられたから今僕はいじめを「感知していない」というだけで、無理解な人間が傍から見たら、大人になった僕は今でもいじめられているように見えるかもしれない。もはやそれがどうでもいいと思えるようになった、鈍感は即ち強さでもある。ありがちな言葉だが「強い者は生き、弱い者は死ぬ」というのはあながち嘘でもない。

 

 では、何故いじめられる側に強くなる努力を強いるのか?不公平だ!と言われれば、確かに理不尽ではあるが、そうするしかないとしか言えない。だって、もし熊が襲ってきたら、熊に「弱い人間を襲ってはダメ」とその場でいくら教えても意味が無い。自分が逃げるか、身を守る。自然に対して人間が行えるのはそこまで。バカに言葉は通じない以上、バカに道を譲るのが嫌なら、撃ち殺すしかない。熊は撃ち殺してもいいのに、バカは撃ち殺せないのが人間の社会の欠陥だ。従って、排除できない以上は自分から身を引くしかない。それは感情論ではなく無味無臭な処世術。公平だの不公平だの損得の話をしてゴネても仕方ないのだ。

 

 で、「いじめをなくそう」と大人たちは言うけれど、じゃあアンタたちの世界にはいじめはないのかい?人種差別は?民族紛争は?形を変えた「弱い者」いじめだろう?もっと言えば職場にだってある。弱いものを攻撃するのは生物に組み込まれたプログラムであり、抗えない。

 

 それも解決できないくせに、子供達の世界だけから、もっと言えば教育現場だけからいじめをなくすなんて出来るはずないし、それは臭いものに蓋をしているに過ぎない。何より自分達に出来ない事を子供にやらせようとするな。

 

 ・・・ああ、確かに子供が自殺するのは問題だ。じゃあ大人はいじめられて死んでもいいのか?子供は社会が守るものだから?じゃあその最も近しい保護者は何をしていたのか?ただ我が子を突然失ったやり場の無い悲しみを行政にぶつけたいだけじゃないのか?マスコミはそれを助長する、その方が同情論が集まって売れるし、公僕はいつだってサンドバックだ。だがそんな子供不在の利害関係などどうだっていいんだよ。「子供が子供に殺された」という事実をストレートに受け止められていないだけで、死に理由を求めるのは生者の傲慢だ。

 

 こういう事を言うと、必ず「いじめを肯定するのか」と横槍が入る。「いじめた側の身勝手な理論」とまで言われる。いじめられた過去を持つ人間が、いじめを肯定していると本気で思うなら想像力がなさ過ぎる。だから非建設的で無粋な横槍は無視する。肯定するか否定するか、科学理論の提唱でもしているのか?現実にあるから受け入れるしかないだろ。

 

 いじめをなくそうだなんて高尚なセリフが言えるのは、自らを子供世界の管理者として上位世界に君臨している大人様だと奢り高ぶっているただのバカである。子供は守るべき対象ではあるが、大人が管理すべき対象ではない。もしそうだと言うならば、今すぐ子供のネット閲覧は全て検閲し、子供の体にGPSを埋め込むしかない。でも、そんな子供もいつかは大人になる。途中まで温室管理して、大人になったらハイサヨウナラ?その後に生きられないのは自己責任?パンも与えられずに道端に放り出されるのか?この国の教育はいつだってそうだ。

 

 我々に出来るのは、子供に生きる、生き残る術を教える事。生き抜く知恵を与えることではないのか?弱いから仕方ない、ではなく、「強く」する。そして、それが出来るのは最も子供の身近にいるべき親だと思う。そして、それをこの国の教育に委ねたいというなら、この国は教育に金をかけなさ過ぎだ。そういう選択をした国民の責任だ。未来を捨て国を存続する今のやり方では、100年先にはこの国はなくなっていると思う。今を生きる大人がそれでいいならそれでいいけど。

 

 そして、繰り返しになるが、いじめを教育現場からなくせばそれでいい奴は本当によく考えて欲しい。世界の縮図だよ。まず大人が手本を見せるべきだ。大人が出来ても無い事を子供に押し付けるのは傲慢だ。大人が出来れば子供もそれを見て真似る、学ぶ。大人は先ず先に答えを見つけるべきだ。教えるべきことを。それは逃避の術じゃない、克服する知恵だ。

 

 ここで今更訂正。「いじめ」ではない。傷害、人格の侮辱、犯罪だ。大人の世界によくあるそれだ。戦争はなくなるか?憎しみは断ち切れるのか?否、人間が感情に支配される限り、なくなりはしない。それは人類の構造的欠陥だからだ。しかし、抗う事は出来る。良くしようと改善は出来る。一度に解決など出来やしない。

 

 誤解なきように、被害者に言いたい。「いじめごときで死ぬべきではない」…結果論で大人になれば大した問題ではないと思える自分も、当事者意識の欠けた大人かもしれない。でも、悟って欲しい。愚かな連中の時間つぶしに付き合う事など無いんだよ。そいつを殺す事でしか脱却できないと本気で思ったら、実行に移したらいい。生き残る為には致し方ない、自分が死ぬよりマシだ。それは生物の摂理。それを可能なら避けたいから大人は焦って目先の事にしか頭が回らないのだ。大人の世界の理なら、「嫌な仕事は辞めて、転職してやり直せ」で済む。何をしても自己責任だ。でも、その選択を安易に出来ないから被害者になってしまうのだ。子供は自由奔放だと言える大人は過去を美化している懐古主義者。親だったり学校だったりが責任を肩代わりするせいで、破天荒な選択は端から潰されている。

 

 だからこそ負けないで欲しい。もっと言えば、いじめに耐える事すら馬鹿馬鹿しいと気付いて欲しい。バカの相手をする必要は無い。自分がバカにならないためにも。そういう輩は徹底的に見下して、軽蔑するんだ。そして、可能なら排除しろ。自らの利益を考えろ。生きる事が至上目的だと本気で思うなら、自分が加害者になったっていいんだ。自分だけが被害者…弱い、価値のない、死ぬべき存在という格付けに甘んじるな。

 

 繰り返しになるけど、僕は、自分がいじめられて然るべき存在だと思っている。誰が悪いかの話をすれば、それはそんな風に生んだ親が悪いという話になるが、その親もそんな子供を生むように生んだ親が悪いという話になるので、結論は「誰が悪いわけでも無い、皆悪い」という性悪説に行き着く。でも、それでも僕は自殺を試みる事はない。「集団の利益のために排除されるべき存在が排除されない」事が、自分を蔑み嘲笑った社会への合法的攻撃だと知っているから。死んだら負けだから。「強い者に攻撃されたら死んで当たり前な弱い者が強い者に攻撃されても死なない」って、それはもう「弱くない」って事。だから999人に「死ね」と言われようと、その999人が死を望む限り生きていくし、あわよくばその999人を殺してでも生き延びる。それが僕の生きる道。共生すべきなんてのは絵空事だ。

 

 自分が死んだほうが世の中のためになるとか、それで全てがうまくいくなんてお人よしはやめよう。死んだところですぐに忘れられる。加害者だって社会復帰する。そいつらが家庭を持ち、のうのうと幸せに生きていくのを許せるか?死ぬことは復讐になり得ない。復讐したいなら尚更生き残るべきだ。のうのうと生きる者が築いたかけがえのない幸福に対する見えない脅威として、抑止力になるべきだ。

 

 最初の話に戻るが、学校から逃げて、社会から逃げて、現実からも逃げる。そしてそれで生きていけない部分は他人が補うのを良しとし、あわよくば奪う。でも、それだって生きる道。是非はあるだろう。しかし、安易に「二ゲロ」と言う大人は信用するな、そういう奴に限っていざ自分が奪われる側になれば「ヤメロ」と、自ら推奨した「生きる道」を否定してくるに決まっているから。安全圏にいるからこそ言える事もある。大人の本音と建前ってそういうもの。

 

 いじめはなくせない。人類の克服すべき問題が、いち子供に解決できる訳が無いし、それは大人がすべきことだから子供がする必要もない。でも、子供でも抗う事は出来る。いや、むしろ、子供であっても抗わなければ、皆平等に殺される。大人と同じように。その術を共有しよう。

 

 争いの無い世界なんてない。悲しいことかもしれないけど、無様でも生き残るしかないんだ。

 

 僕が今日まで生き残った術が、今この瞬間を戦う誰かの役に立つと願って。

俯き妖怪共

 僕はスマートフォンという物を持っていない。

 こう書くだけでも僕の素性が知り合いにバレてしまうんじゃないかと怖くなる程度に今となってはマイノリティだという自覚もあるし、世の中に普及している事は認めざるを得ない。

 

 

 何故持たないのか。便利だし、皆持っている物を。

 その理由には物理的、金銭的、或いは目的意識に因る処もあるが、それはさておき。

 簡単に言えば、嫌いなのだ。

 

 

 例えば、そこそこ気の知れた友人と食事に行く。

 最初は話に花も咲く。食事もそこそこ、一服をつく頃になって。

 何故かスマホが現れる。

 いや、下手を打てば最初からまるで食器の一部のように机に置かれていたりもする。

 相対した友人は視線を落とし、スマホに目を向ける。

 それは、客観的に見て僕を相手にしていないのと同義。

 想像してみてほしい。片方は視線を上げ、もう片方は俯いて項垂れている。その光景を良い雰囲気だと思う者はいないと思う。

 主観では?もちろん、「無視されている」と思う他無い。

 誘ったのが当方であれ相手であれ。今まさに自らの時間を二人の時間として提供し、共用しているそのさなかに。

 いとも簡単に。一方的に。それが閉ざされる。

 

 

 はっきり言います。

 不愉快です。

 無礼極まりないよ。狭量だろうが今時当たり前だと言われようが。

 もしこれを読んで思い当たる節がある僕の知り合いがいるなら、大いに反省していただくか、「それでもスマホが見たいんじゃ!」という方は今後の付き合いを検討して欲しいね。

 というか、常識的に考えて相手に失礼だと思わないのかね。そう思えない神経が解せん。

 当然、そこで二人の時間は不意に途切れ、食事はまずくなり、会話はぎこちなくなり、少なくとも僕は割を食う形で店を後にするわけだ。僕がコミュ障である事を鑑みても、あんまりな仕打ちではないか。

 

 じゃあ三人なら?

 もっと不愉快だよコンチクショウ!!

 三人いて、二人がスマホに目を落としている。僕は普通に食事、食べるものが無ければ、水でも飲みながら会話の糸口を探すだろう(既にこの光景だけで薄ら寒い)。

 そして考える。

「ああきっと今この二人は、スマホ越しに俺の悪口を言っている」

 ラインとかグループトークとかよく分からない。ガラケーのメールでも悪口を言い合うだけなら同じ事は出来る。

 問題は、この場にいない者と、それを共有しているのではないかという不快感。スマホでは、それが出来る(と聞いている)。それも、限りなくリアルタイムに、だ。

 もちろん疑心暗鬼にすぎず、各々が独立したプライベートに接続している事だってあるだろう。それが普通だと信じたい。でも人間だ。感情がある。簡単に害される脆さがある。

 まだ、「お前を仲間外れにしているぜ」と分かるように二人でしか通じない話題に興じていてくれた方が、あからさまな分気持ちはいい(それでも遅効性ながらダイレクトに傷付くが)。

 そんな疑惑を生み出す可能性を発生させるという点で、スマホが嫌いなのだ。

 持つのはいい。使うのもいい。金を払っている。好きなだけ使え。

 だが最低限、僕と話している時は我慢してくれ。

 と書くと傲慢に見えるなら、お願いとして、人と会って、話す時は、出来ればやめて欲しい。気にならない人もいるし、恐らくは気にならない人のが多いと思うけど。

 そこまで大事なやりとりがあるなら、素直にそう言ってくれ。訃報でもオークションの監視でもいい。嘘でも理由を述べれば、疑惑は納得に変えられる。少なくともその場では。

 そこまで大事ではないのなら、今この場で相対する僕の価値はその程度だと捕らえさせてもらうし、その程度の付き合い方でいいのだとこちらも自覚してそれ相応の応対をする。もう一度言うが、望むべくは、向こうからその程度の価値しかない人間との付き合いを断ってくれれば、こちらも一手間減るし、良心を余計に傷つけずに済む。ああ、ゲームとかやってるとか言ったら吹っ飛ばすから。

 何が言いたいかというと。

 プライベートな時間を切り売りして設けた場だという自覚をして欲しい。その事に対して、お互いが敬意を払うべきだ。

「今日は来てくれてありがとう」

「こちらこそ、誘ってくれて嬉しかったよ」

 そう自然に言い合えるような場って、そんなに難しい?

 今日一日を無駄に過ごしただなんて、誰だって考えたくないはずだ。スマホをするのが無駄とは言わないが、誰かの時間を無駄にしている事を覚えていて欲しい。

 

 

 でも、そもそもスマホである必然はあるのか?と考える。

 これは僕自身不思議に思うことなんだけど。

 だって、世の中にはもう10年、いや20年前から「ケータイ」が普及して、いつの時代の若者だってそれをコミュニケーションに用いていた。僕自身も例外ではない。

 最近よく言われる「歩きスマホ」って言葉の違和感もそれだ。若者がケータイを見ながら歩いている光景なんて、わざわざ名詞化するほど特殊な事か?「歩きケータイ」「歩き電話」で通じるし、何なら「ながら歩行」のが「ながら運転」と対になって汎用性も高い。これは、マスコミが主視聴者層であるおじさんおばさんに対して若者下げをを行うために「スマホ=若者」という結び付けをして印象操作を行うために作った造語だと思うのだけれど、今はその話は置いておくとして。

 感情を排除して冷静にガジェットとして見れば、ただの板。バッテリーが脆弱なポータブルなパソコン、或いはインターネット端末。それだけ。類似する物なんていくらでもある。

 それでも感情を交えると「スマホ憎し」になる理由は、前述のマスコミ造語と同じなんじゃないか。

 スマホの象徴たる若者。もっと言えば、繋がる相手が存在する「リア充」。いや、今や小学生からおじいさんまで持っている、そういう相対的普遍性。

 僕を迫害してきた「フツーの人間」の最先端の武器。それで本来不可侵な個人の時間を攻撃されるという発想は、単に僕が捻くれた人間であるという事以上の意味を持つような気がする。

 ひと、そのつながり。或いはそれらを構成因子にもつ「時代」。目に見えないけれど確かに存在する、抗えない存在。それが、スマホの出現で可視化されてしまった。

 きっと、僕より長く生きた人の中には、ポケベルやガラケーの出現時に、同じような時代への疎外感を感じた人もいるのではないか。

 

 

 「じゃあ、仲間外れが嫌ならアンタも持てばいいじゃない。それで持っていない相手を迫害する側になればいいじゃない!」もちろんそれはごもっともである。人はマジョリティに属するだけで、社会上は強くなれる。

 でも、じゃあ持てば満たされるのか?空虚な繋がりで、本当に満足できるのか?満足してしまえるのか?そういう怖さがある。

 そう、嫌いを通り越して、怖い。あんな薄っぺらな板切れが、自分を変えてしまうんじゃないかという怖さ。

 ともかく、皆が持っているから当たり前、持っていない奴が悪い、そいつが我慢すればいい。そんな暴力的な民主主義は好きじゃない。持ってて当たり前、という空気が漂っている時点で、この国の多様性は失われた。ついでにガラケーという独自文化も潰された。世界的にも先進的だっただけに残念。

 SNSもそうだが、日本人はもっと外来種のツールと自分達の相性を知るべきだ。何でもかんでも欧米に倣え追い越せは戦前だけで十分だが、いつの時代もそうなる辺りが島国根性たるイナカモノ的国民性なんだろう。単一民族故に排他的で保守的であるかと言うと、すぐに扇動されるあたりはその限りではない。

 発祥の欧米では、もっと人間同士の関係性がドライだと聞く。日本人が真似できるような物じゃないし、真似するべきとも思わない。敗戦で植えつけられた劣等感がそうさせるのか、日本人はアイデンティティを軽視し過ぎた。そんなもんは最初から無かったんじゃないかと思すらえる。けど、結果的にスマホは日本人を変えてしまった。3.11からなる時代のうねりがあったにしても。

 

 個人的な嫌悪から随分と話が飛躍してしまったが、結論として、やっぱりどうにも好きになれない。便利なことも分かっているし、遠くない未来にやがてガラケーは滅びるだろうから、いつかは生きていくためのインフラとして必須になることも分かっている。

 それでも、まるで当たり前のように人の悪意を掌でシェアできる道具に、禍々しい物の怪を重ねてしまう。今、人ならぬ繋がりが僕を取り囲む状況こそが、嫌悪感の正体である。

 面倒臭い人間なんだ。

 

 

 あー、ちなみに。

 「画面を指で撫で回す」という造作が嫌い、という最も主観的で生理的な理由があったわ。実際不衛生らしいし。

 電車乗って皆俯いてナデナデしてる様は本当に気持ち悪いと思います!

あ。

 なんでいつもこうなるかな。

 

 気がつくと板挟みの状態になっている。

 ある一つの「組織」の中に二つの派閥があったとして、どちらかに属せばどちらかと敵対するような場合、そもそも誰とも敵対したくないのでどちらにも属さないでいると、いつのまにかそのような状況となる。

 なぜ属そうとしないのか。

 確かに帰属はすなわち安心に繋がるかもしれない。だが、同時に「いつ裏切られるか」という不安も背負い込む事になる。

 最初はただの八方美人だったが、それをやめてもなお帰属を避けるのは、不安を恐れているからだろう。根底にある人間不信がそうさせるのだ。

 もちろん、争いそのものを避けている面もある。それは、誰かに攻撃したり、攻撃されたり、その過程で傷付け、傷をもらう。その一連の感情の動きそのものが、何と言うべきか、面倒臭いのだ。

 そんな、面倒を抱え込んだ上に不安と隣り合わせにある安心を手に入れるくらいなら、最初から孤独でいたほうが、「楽」なのだ。

 

 だが、そう簡単にはいかない。

 「組織」の中での孤独は、やがて疎外感を生み、周囲からの迫害が始まる。そうなれば、状況はさらに面倒な方向へ転がり込んでいく。

 そうなってようやく「組織」を捨てる。抜け出す。忘れる。ゼロに戻す。僕の人生はその繰り返しで、継続的な人間関係など全く築けていない。

 最初から「組織」に属さない生き方を選択できれば、それが僕の人生の突破口になり得るか?安直な考えだと思う。「組織」に属しているからこそしなくて済んでいる事も有るからだ。

 「家庭」「学校」「職場」…。恐ろしいことに最初から所属が義務付けられている「組織」すらあるのだ。

 

 或いは、周囲に疎まれつつもしがみ付き、甘い汁だけ啜るような生き方も狡猾だろう。

 問題なのは、「それでも組織のために尽くしたい」という中途半端な真面目さ。それがある限り、良かれと思ってやった事全てが裏目に出てしまう。それこそ派閥に属すだけで何もしてない者の方が無害であるほどに。集団の福祉を自分なりに考えた末に、自分も含めた周囲全てが迷惑を蒙る。救われない。

 だから、組織を利用して甘い汁だけ啜る、或いは組織に属さず社会的な責任も放棄して出鱈目に生きる、そういう不真面目さが今の僕には必要なのかもしれない。

 しかし、それは自分を曲げることになる。どうせ曲げるのなら、さっさと派閥に属して、無自覚な悪意を無関係な人間にぶつけ続けるのも同じではないか。そんな袋小路。

 

 正しく、自分らしくありたいが為に。それはこの社会で望まざるべき願望なのか?そんなに困難な生き方なのか?排斥されるべき思想なのか?机上の理想論でしかないのか?

 

 

 あとは板挟みに耐えるだけの日々。

 どちらにももたれ掛からないようにバランスを見極めて、全て背負い込んで、すり減らす日々。

 有益か?

 それとも孤独を受け入れる覚悟を決めるのか。それは他者からの一切の援助を放棄する事。それを享受し、甘えて生きてきた僕にそんな生き方が出来るのか。

 じゃあどうしたいのか?

 簡単な話。楽になりたい。

 もっと有益な生き方をしたい。無駄に人生をすり減らす日々に別れを告げたい。つまらないしがらみにも。

 そんな理想と現実の間で右往左往していただけで、こんなにも歳をとるだなんて。

 

 ああ、どうしていつもこうなるのだろう。

 腹立たしい。